第1章 出発までのあれやこれや (1/67)
 
はじめに

 私は今回、京都府亀岡市が主催した市民友好交流訪中団の一員として、上海と蘇州そして中国の西方4千キロの昆明に5泊6日の旅行をしました。そこで出会った日本人、中国人、アメリカ人――すべての人たちから献身的な手助けを受け、その行為の美しさに感動さめやらず、人の心がいかに美しいものであるかをお伝えしたいという強い願望でこのホームページを開設しました。

 健常者なら問題のないことでも、障害者だから時間がかかったり、他人の力が必要なことはある意味、当たり前です。問題はそういった自分を理解し、受け入れてくれる若干の人がいれば、大半の問題は越えていけるものであり、一つ一つの問題を他人とともに乗り越えていく過程で、健常者では味わえない密度の濃いふれあいが他人とできるということです。

 もちろんすべての人がどんな時も善意の固まりであるといっているわけではありません。人の善意というのは、ともすれば心の奥底に沈み、自分自身もそのことに気付かないままに生活していることが多いように思います。しかしながら、私のように立つことも歩くこともできない1人の障害者が目の前に現れると、その善意は心の奥底からふいに現れ、まるで恋人に接するように、痛みを分かち合うことになるようにも思います。これから書く旅行記は、そうした人と人との関わりを車イスの私から見たものです。

 まず私の病気のことを簡単に書きたいと思います。30歳前まで極々当たり前のサラリーマンをしていた私は、ある時からしばしば階段をつまずくようになりました。あまり頻繁につまずきだした私は、大学病院で検査を受けました。2週間の検査入院の結果、下された病名は脊髄性進行性筋萎縮症というものでした。いろいろな療法を試みましたが、いずれも効果なく全身の筋肉は痛みのないまま静かに萎縮していきました。その結果、発病から10年が経ったころ、もはや杖で歩行する限界が来て、ついに車イスを使う体になったのです。車イス生活に移行するのと同時に2度目の職場も辞し、後は障害年金だけで生活をするということが2年続きました。

 進行性の筋萎縮ですので、年々体は動かなくなります。いつしかベッドからも起きあがれなくなり、電動ベッドで上半身を起こすということになりました。靴下をはくことも難しくなり、下着から上着まで全部他人の手を借りて着せてもらいます。当然歩けませんので、ベッドに車イスを横付けし、車イスまで介助を受けて移動します。いったん車イスに移った後も、突然の排便で泣く泣く床に降りざるをえません。簡易便器で用を足し、齢73歳になる母親が「いつまでできるか分からんなぁ」とため息をつきながら、私を車イスまで引き上げてもらうような始末です。

 ただじっとしているかぎりは自身の障害を自覚するということはありませんので、1日の大半は車イスに坐り、パソコンの前で過ごすという生活をしています。まだ比較的上半身の筋力はありますので、車に車イスを積んで、母親の買い物につきあったり、難病の会の会活動にも役員として車で参加していますし、目の見えない人のために朗読ボランティアもしています。そんな関係で1週間に2、3回は車で外出することもあります。

 目の前に津波のような大きな波が押し寄せ、翻弄され、のたうつほどの苦しみを経験し、少し周りの景色が目に入るようになるまで発病から5、6年かかったでしょうか? 1日の大半をパソコンの前で過ごし、1週間に2、3回車で出かけるような平凡な生活をしている私が、どういう理由で中国旅行を思いついたかをお話しします。



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