第2章 出発日.中国第1日目 亀岡−>上海−>蘇州 (11/67)

困惑の旅の始まり

  DC10からまたJAL専用の車イスに乗り換えました。車イスを押してくれるJALの職員さんは日本人と思いこんでいました。 ところが、実は現地採用の中国人だったのです。実に丁寧に段差を上がり、私を入国審査の場所まで連れていってくれました。 訪中団の一行が手荷物の受け取りをしている時、私も自分の車イスを受け取りに行きました。 JALの特製車イスから、私の車イスに移る際にも、現地採用の中国人に全面介助を受けました。 男性3人に抱えられ、上から私の車イスに着地しました。

 いや、もはや中国人に介助を受けたとか、日本人に介助を受けたという分け隔てはまったく意味がありませんでした。 介助をしてくれた人の中には日本人もいたし、中国人もいたということのほうが本当なのです。 そして、私の場合、中国を旅行する以上、17名以外の人の手が必要となる場面がそれ以降たびたび出てきましたし、 そのときにお願いしたのが、たまたま中国人であったということでした。

 荷物を受け取ってまもなく人ごみの中から、いきなり「
もう、来ないと思った!」という大きな声とともに、かわいいお嬢さんが我々の前に小走りに現れました。 彼女は蘇州市人民政府外事辨公室の職員さんで、 この部署は主に外国要人の接待を担当しているそうです。彼女はなんども電光掲示板を眺め、我々を延々5時間近く待っていてくれたのです。

 上海空港を出て、すぐに外の景色が飛び込んできました。我々が空港の外に出たのは現地時間の10時近くになっていましたので、さすがに何の音も聞こえずシーンとしていて、車の往来も人影もありません。暗闇の中、目が慣れてくると、広い広い道路がずーと伸びているのが分かります。動いているものと言えば、その両側に色とりどりのネオンがチラチラと瞬(またた)き、赤や黄色、青に変化して文字や絵を描いています。あたり一面大きな漢字の看板が静かに林立しています。ここは日本ではありません。私は漢字の国、中国に来たことを実感しました。

 やがて用意されたバスに乗り込み、蘇州に向かいます。早速、中国での「うんこ」「バスの乗り降り」「列車」「飛行機」が始まりました。中国のバスといっても特別に古いものではありません。 最新型の観光バスでないだけで、3段程度のステップで車内に上がり込むごく普通の観光バスです。

  まだこの段階では、訪中団の一行はどういうふうに私を車イスから車内に運んだらいいか、混乱と混迷の時期でした。 手順も決まっていませんでしたが、ステップから最前列の座席に座らすのに、脇の下を持つ人1人、足を持つ人1人になることは、簡単に分かりました。 通路は狭いので、大勢で私を運ぶことは不可能だったからです。なんとか先頭座席に私が、隣に母がすわり、バスは蘇州に向けて深夜の高速道路を走り出しました。

 ところで、我々一行が向かう蘇州というのはどういうところでしょうか?
 
蘇州市の概要

 
江蘇省南端にあり、「上有天堂、下有蘇杭」と讃えられ、杭州と並ぶ景勝地。人口105万人、上海の西約90キロ、太湖の東北に位置し、気候は温和で市内には運河が町の内外を網の目のように張り巡らされ、古城地区には、170余りの橋がかかる橋のまち、水の都として広く世界に知られる。 
紀元前514年、春秋時代の呉の国都として発展して以来、歴代周辺地域の政治的中心地であり、清代には江蘇省の省都にもなった。 
特産物として「両面刺繍」や白檀の扇子は有名。名勝旧跡が多く虎丘、霊岩山、拙政園、留園、獅子林、西園等がある。また、寒山寺は、唐の詩人張継の詩「楓橋夜泊」にうたわれ、高僧寒山にちなんで名付けられた寺としても名高い。日本との時差はマイナス1時間


 上海から蘇州までは約90kmです。高速道路を利用して1時間強の行程でしたので、車内で彼女から明日以降の日程の発表がありました。 それ以降は我々から彼女に対していろいろな質問をしました。

●平均月収は?
大体1万円から高い人で3万円程度、農村では信じられないくらい低いです。
●そうすると物価は1/10程度ですか?
日常生活用品は確かに安いものの、日本製の電化製品は日本で販売されているぐらいの値段がします。
●中学校ではいじめはありますか?
明日訪問する蘇州中学校ではありません、程度の低い学校ではあると思うが、学級崩壊など考えられない、生徒は先生を尊敬しています。

 彼女は南京大学で日本語を勉強したエリートでしたが、それでも月給は2万円程度なのです。その同じバスの中には日給が2万円という日本人もいたのですから、国力の差というものを感じてしまいました。

 我々一行が当日宿泊するホテルに着いたのが現地時間の午前0時ころ、日本時間では夜中の1時です。 早速フロントで部屋の鍵の分配に預かり、急いで部屋に引き上げます。フロントからエレベーターに向かう途中で、通路を挟んで両側にナイトラウンジがあり、中国女性が お酒や食べ物を運んでいました。

 私はそのとき、あの、うわさに聞く、チャイナドレスという物を妖(あや)しげなカクテル光線の下で初めて見ることになりました。深く、深く、……必要以上に深く切れ込んだチャイナドレスこそが私の中国なのでした。必要以上に切れ込みを入れて頂いても、車イスの私には「どうさせてもらったらいいでしょう」ということになります。

 その日以降、実に多くの場面で、チャイナドレスを見る機会に浴したのですが、深夜疲れてホテルに着いた私の目に飛び込んできたチャイナドレスの洗礼は実に強烈なものがありました。

 ところで部屋にはいってツアーの面々はたぶんそこそこの時間に寝られたのでしょうが、私は仏教徒というか、、創価学会員でしたので、夜のおつとめ(勤行)をしなくてはなりませんでした。もっとも、おつとめ(勤行)は義務や強制という類ではないのです。 事実うちの母も同じく創価学会員でしたが、中国滞在中、ただの1度もおつとめをしなかったのです。 私はと言えば、ただ深々と自身のことと他人のことを祈るという、あまりぱっとしない創価学会員でした。

 ただおつとめ(勤行)こそは私の元気の源そのものでしたので、ご飯を食べるが如く、遅くなってもおつとめ(勤行)をして、現地時間の1時ころ(日本時間の2時ころ)にやっと眠りについたのです。

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