第6章 中国第5日目 昆明 (62/67)

旅の終焉

 
ホテルに戻るとあわただしく荷造りをしなければなりませんでした。なにしろ明日は午前5時半にモーニングコールで、6時朝食、6時50分にはこのホテルを出なくてはなりません。どうしても寝る前にはすべての準備を整える必要があったのです。5日間の大切な大きな思い出のせいか、中国で買った旅行かばんは一杯にふくらみ、ずっしりと重くなりました。

 準備が終わると後はすることがありません。私はお別れを言いに地下の売店に行きました。売店に入るとショーウインドーの上に顔を突っ伏して、英語の分かるお嬢さんが眠そうにしていました。きっと昼間母と私を観光に案内し、その後仕事をしていたのですから、きっと疲れたのでしょう。今でもその光景を思い出すと胸が痛みます。

「僕が疲れさせたね」そんな意味の英語を言ったのですが、彼女は返事をしませんでした。はたしてその英語が通じたのやら分からず、今でも切ない思い出です。その彼女とも今晩でお別れです。明日は彼女の出勤前にホテルを出発します。そんなことを伝えました。

 ただ心に引っかかることがありました。それはなくした電子手帳です。荷造りのときにも出てきませんでした。ホテルのどこかで落として、だれかが拾ってそのままなのでしょうか?
いや!人を信じなさい!
 そういう意味なのだとなんどもなんども自分に言い聞かせました。しかし、出てきません。さりげなく英語の分かる彼女にそのことを伝えました。「実は電子手帳にあなたの名前を入れていたのですが、落としてないので、もう1度教えてほしい」と言いました。

 話の中で彼女は「この店は10月一杯で辞めて故郷に帰るつもりである」と言いました。そして、「故郷で日本語学校に通う」と言いました。彼女が日本語を習う理由は、日本語が話せると給料が上がるせいらしいのです。同じ年令の日本語が話せるお嬢さんは彼女より200元ほど給料が高いのです。「そのお金はどうするの?」と聞くと「両親にお願いして、無理なら半年だけでも出してもらう」と答えましたが、月給400元の彼女から仕送りを受けている両親が、はたしてそのお金を工面できるのだろうか――そんなことを聞きながら思いました。

 彼女たちが私に好意を持ってくれたのは実は、分け隔てなく接してくれた事とも関係しているようです。実は彼女たちは昼の公園を歩いていて、いろいろな少数民族を紹介をしている一角を通りかかった時「実は……私たちは少数民族なんです」と少し思い切ったような言い方で私に打ちあけたのです。きっと彼女たちはいろいろな言われなき差別を受けているのでしょう。しかし、私は彼女たちにこう言ったのです。「日本人の僕にとって、少数民族も漢民族も同じ中国人であってなんら変わりはないよ」。きっとこのあたりの素朴な意見がもっと中国で増えればいいのでしょうが、なかなかそれは難しいようです。

 少数民族と言えば、考えようによれば私もまた車イス生活者という一種の「少数民族」のようなものです。そこにはハッキリとした差別もあれば、いろいろな困難もあります。しかし、こういう立場にならないと見えてこないものもあれば、確立できないものもあります。しかも私は今の自分の方が、はるかに人間的に深みもでき、幅もできたと公言し、自分でもそう思っていますから、「少数民族」であることを自慢に思っています。

 私には世間で賞賛されるような高い地位とか、財産とか、役職というものにはまったく縁がありませんが、しかしながらそのことはそのことで自分には関係のないことであり、そのことを卑下する必要もないことだと思っています。どこまで行っても私は私であり、私ができるのは私であり続けることであるからです。私であり続けることとは実は、障害者であり続けるということでもあるのですが、今の私の頭の中には健常者も障害者もなく、ただ人間しかないのです。健常者と障害者という違いは私にとって余り大きな違いと思えないのです。もっと大きな違いはその人が幸せか不幸せかということの方が遙かに大きな違いであって、その違いから見た時、健常者、障害者の違いなど、ほとんど問題にならないのです。

 今回の旅行のように参加した日本人旅行者の介助だけでは足りず、実に多くの中国人の方に介助をお願いしましたが、そういう立て分け方自体もほとんど問題にならないのです。私個人から言えば、私の障害というものを突き抜けて「私自身」と向かい合って頂ける人か、そうでないか、そういう観点が一番大きいのであって、そうなるとその人の目の数が人より1個多いとか少ないというのはほとんど気にならないのです。人が気にすることが気にならないだけ、余計なことに頭を使わなくて良いので、その分くよくよすることがありません。

 たまたま英語のできるこのお嬢さんといろいろな話をするのも、彼女が若いとかきれいとかいうことではなく、要は車イスというものを突き抜けて私自身に向かって話をしてくれるから、私も誠実に彼女が少数民族であるということを突き抜けて、彼女自身の人格と話をしているだけなのです。

 性格とか、人種とかを突き抜けてその人の一番深いところを見ていくと、大半のことは気にならなくなってきます。人の一番深いところにあるのはキラキラ光る人間性です。こういうものが見えてくると、その人の欠点もあまり気にならなくなります。そういうふうに人に接しているとストレスもなく毎日楽しく生活できるようです。

 ふっと彼女は席を外しました。そして戻ってくると私に1枚の紙切れを渡しました。そこには彼女の故郷の住所が書いてありました。彼女と話をしたのは2日間であり、慣れない英語でたどたどしく会話をしたに過ぎません。しかし、半日私の車イスを押してくれました。そういう人を私は大切にしたいと思います。おそらくこの地に来ることはないと思いましたが、なんらかの形で彼女にはお礼をしたいと思っています。

 もう残り時間もあまりなくなった時でした。エレベーターから人が降りてきました。
です?!
 その母の右手にはなくしたと思った電子手帳が握られていました。

バスタオルの下から出てきたよ
…………

 そのとき私は「これにて終了」と悟りました。すべての宿題はこれで終わったのです。
人を信じなさい
宿題はこれでした。これに私は解答を書き終えたのです。降りかかるべきすべてのことが起こり、するべき事をし終え、もはやする事はなくなりました。私の中国の旅はこれにて終了したのです。

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